理由のわからない不安に、無理に答えを出さなくてもいい

今日、いつも通り電車で通勤していたら、なんとなく不安な気持ちになった。

何か特定の嫌なことがあったわけじゃない。ただ、ふわっと今までの色々な失敗が頭に浮かんでは消えていく。一つ一つが重くのしかかってくるわけじゃなくて、全体がぼんやりとモヤっとしている、そんな感覚だった。

こういうとき、いつもすぐに原因を探そうとしてしまう。睡眠不足だったからか、朝の準備が慌ただしかったからか。理由がわかれば、対処できる気がするから。

でも今回は、正直まだ理由がわからない。

原因を探すこと自体が、癖になっている

これまでの記事でも書いてきたけれど、自分は普段から、物事の理由や仕組みを分析するのが癖になっているタイプだと思う。人の気持ちにも、自分の性格にも、「なぜそうなるのか」を考えることで、少しずつ納得してきた。

だから、こういう漠然とした不安に対しても、反射的に「原因は何だ」と探しにいってしまう。

でも、今回はいくら考えても、これといった決め手が見つからない。睡眠不足も、慌ただしい朝も、多少は関係しているかもしれないけど、それだけが原因だと言い切れる感じもしない。

答えが出なくても、書いてみる

前回までの記事では、映画を観たり、身近な時間を大切にしたりする中で、何かしらの気づきがあった。今回は、そういう着地点がまだ見えていない状態で書いている。

それでも、これはこれで一つの記録として意味があると思う。いつも何かに気づいて、前向きな学びにできるわけじゃない。理由がわからないまま、モヤっとした気持ちを抱えたまま、一日を過ごすこともある。

無理に理由を見つけて納得しようとしなくても、「今日はなんとなくそういう日だった」と、そのまま置いておいてもいいのかも。

答えが出ないことを、答えが出ないまま書く。それも、自分の気持ちと付き合っていく一つのやり方かなと、今は思っている。

短所だと思っていたものが、実は長所の裏側だった話

前回、前々回と、輪の中に入れない自分、そしてその気持ちと折り合いをつけていく過程について書いてきた。今回は、前書き忘れた映画を観て気づいたことについて。

ある登場人物は、言葉をうまく話せない家族と長年一緒に過ごしてきた人だった。仕事でカウンセリングをしていて、あるとき相談者から、こんな話をされる場面があった。「一緒にいる相手が、たくさんの言葉を使って謝ってくるけれど、言葉が多いほど、なんだか嘘っぽく聞こえてしまう」と。

それに対してその人は、「言葉って難しいですよね。言葉は口から出た瞬間に、意味が難しくなる。表情から伝わるものの方が、真意に近い気がします」というようなことを返す。すると相談者は、「どうしてそんなに、私の気持ちがわかるんですか」と驚く。

その理由は、その人が普段、言葉をうまく話せない家族と接する中で、言葉がなくても表情や仕草から相手の気持ちを読み取る経験を積んできたからだった。

「できないこと」の裏側にあるもの

このエピソードを見て、はっとした。

「言葉が話せないから、気持ちがわからない」のではなく、「言葉がない分、他のところから気持ちを読み取る力が育つ」。不自由さや苦労がある分、人よりも引き出しが増えていく。うまく言葉にできないけれど、これはすごく大事な気づきだと感じた。

人と違う経験をすることは、人と違う強みを得るチャンスでもあるのだ。

短所と長所は、表と裏

これまでの記事で書いてきた、「輪の中心に入れない」「目立たない」という自分の特徴も、同じことが言えるのかもしれない。

表面だけを見れば、それは短所のように見える。でも、裏を返せば、輪の中心にいないからこそ見えるものがあるし、目立たない立場だからこそ気づける、同じような立場の人の気持ちが少しわかることもある。

長所と短所は、表裏一体なんだと思う。他人と比べて表に出ていない特徴は、短所として語られがちだけど、見る角度を変えれば、それはそのまま長所にもなる。

輪に入れないことも、目立たないことも、何かが欠けているということではなく、その分だけ違う経験や、違う気づきを得られる場所に立っている、ということなのかもしれない。


書いてもすぐには消化できなかった気持ちも、映画を観て涙したことも、そして今回のように新しい視点に出会ったことも、全部繋がって、自分の中で少しずつ形になってきている気がする。

書いても消えなかった気持ちが、ふとした瞬間に軽くなった話

前回、輪の中に入れない自分について書いた。書くことで気持ちを吐き出したつもりだったけど、正直に言うと、書いたからといってすぐに気持ちが晴れたわけではなかった。文字にすることで、むしろ自分の中にある重さに、あらためて気づいたような感覚もあった。

記事を投稿した後、しんどい気持ちを抱えたまま、ふらっと出かけた。たまたま時間があったので、映画館で一本の映画を観た。障害を持つ兄と、その妹の日常を描いた作品だった。

観ながら、自然と涙が出てきた。自分が今しんどい状態だったからかもしれない。でも、それは「自分より大変な人を見て、自分はまだましだ」と思いたかったからじゃない。素直に心が動かされて、涙が出た。そして、観終わったあと、少しだけ心が軽くなっていることに気づいた。

当たり前だと思っていたものが、当たり前じゃないと気づいた

映画館を出たあと、頭の中で色々なことが繋がった。

今日、平日の昼間に映画を観に行けている。ブログを書くために、好きな時間にカフェにも行けた。この後は散髪に行ってさっぱりできるし、夜には子どもたちと会える。下の子とは最近、あるゲームで盛り上がっている。

こういう、なんでもない日常が、実は大切な自分の人生を作っている。それ以上、何を望んでいたんだろう、と思えた。

子どもが試合に出られない?自分が輪に入れていない?目立たない、存在感がない?

——別にいいやん。その分、自分の好きなように生きられる。毎日子どもと元気に話せるだけで十分だし、仕事はしんどくても、自分にしかできないことを片付けられたときには、ちゃんと達成感や必要とされている実感がある。

映画を観る前と後で、こんなに物事の見え方が変わるのかと、自分でも驚いた。

身近なことで、気分は変えられる

配信サービスで自宅でも映画は観られる時代だけど、お金を払って映画館に足を運び、スマホの電源を切って、2時間その世界に没頭する時間には、それだけの価値があると感じた。

似たようなことは、運動をしているときにも感じる。好きな音楽を聴きながら体を動かしている時間は、体はしんどくても、終わったあとに充実感がある。

「今この瞬間だけに集中する時間」を持つことで、頭の中のぐるぐるが一旦止まって、視界がクリアになるのかもしれない。

書いても消化できなくても、それでいい

前回の記事を書いたとき、「これで気持ちが整理できた」と思いたかった。でも実際は、書いたあとも気持ちは残っていて、しんどさは続いた。

それでも、今回気づいたのは、一度で全部消化できなくてもいいということだ。書くこと、映画を観ること、体を動かすこと。そうやって色々な形で気持ちと付き合っていくうちに、少しずつ視界が変わっていく。

輪に入れなくても、目立たなくても、自分には自分の日常があって、それを自分なりの方法で大切にできる。今はそれで十分だと思えている。

「輪の中心に入れない自分」に気づいた日

先日、子どもの習い事の応援に行った帰り道、なんとも言えない気持ちになった。

出場機会が減ってきた我が子を見ながら、応援の輪の中で、自分の居場所がないような感覚があったからだ。中心的な保護者たちの集まりに、うまく入っていけない。かといって、自分がその中心に入りたいタイプなのかというと、それも違う気がする。

考えてみれば、子どもが活躍しているときは、その活躍を通して自分もどこかで「輪の中にいる」ような感覚を持てていたのかも。それが今、出番が減ったことで消えてしまった。悔しいのか、寂しいのか、自分でもよくわからない感情だけが残った。

なぜ自分は「一人」が楽なのか

こういう感覚になったとき、自分の性格についても考えた。もともと自分は、大勢でわいわいするより一人でいる方が楽だと感じるタイプだ。なぜだろうと考えてみた。

自分は、人一倍「周りが気になる」性格なのだと思う。困っている人がいたら気になるし、集団の中でスポットが当たっていない人がいたら、つい気にかけてしまう。たいしたことができるわけじゃないけど…(笑)

仕事でも、目立たない人やフルで働ける人にこそ目を配ることが大事だと思って動いてきた。今世間の風潮的に男性も育休をとろう、残業は抑制だといったことがあるが、実際の感覚は、育休が推進される一方その補充がるわけでもないので、残された普通の?一部職員にしわ寄せがいっているのが現状だ。反発はあるかもしれないけど、だから自分は育休や子育て中の職員に配慮する一方で、それ以上に文句も言わずがんばってくれているフルで働ける職員に気を配りたいと思う。

そうやって常に周りにアンテナを張っていると、集団の中にいること自体が、地味にエネルギーを使う行為になる。他の人が気楽に輪に加わっている横で、自分は無意識に「誰か困っていないか、損をしていないか、不満がたまってないか」を探してしまう。だから、一人でいる方が気を張らずに済んで、楽なのだろう。

それでも、輪の中に入りたい自分もいる

矛盾しているようだが、心のどこかで「集団の中に入りたい」という気持ちも確かにある。一人が楽だと感じながらも、完全に一人でいたいわけではない。たまには何も気にせず集団の中にりたいときもある。この二つの気持ちは、両方とも自分の中にある本音なのだと思う。

そう考えると、「輪に入れない自分はダメだ」と責める必要はないのかもしれない。多くの人がなんとなく気楽に群れているとき、自分は違う関わり方をしているだけなのだ。人を気にかけすぎる分、群れの中で気楽に過ごすことが、性質的に少し難しいだけなのかもしれない。

感情に名前をつけなくてもいい

「悔しいのか寂しいのか、よくわからない」という気持ちについても、今は無理に一つの言葉に絞らなくていいのだと思うようになった。

子どもの活躍を見る誇らしさが減った悔しさも、輪の中に居場所がない寂しさも、たぶん同時に存在している。それをどちらか一つに分類しようとするより、「今、いろんな気持ちが重なっていて、しんどい」と、そのまま受け止めるだけで十分なのかもしれない。


自分がなぜこう感じるのかが少し言葉になっただけで、心が軽くなった気がする。だれかの役に立つような内容ではないけど、自分で整理するために今後もすこしずつ書いていきたい。