書いても消えなかった気持ちが、ふとした瞬間に軽くなった話

前回、輪の中に入れない自分について書いた。書くことで気持ちを吐き出したつもりだったけど、正直に言うと、書いたからといってすぐに気持ちが晴れたわけではなかった。文字にすることで、むしろ自分の中にある重さに、あらためて気づいたような感覚もあった。

記事を投稿した後、しんどい気持ちを抱えたまま、ふらっと出かけた。たまたま時間があったので、映画館で一本の映画を観た。障害を持つ兄と、その妹の日常を描いた作品だった。

観ながら、自然と涙が出てきた。自分が今しんどい状態だったからかもしれない。でも、それは「自分より大変な人を見て、自分はまだましだ」と思いたかったからじゃない。素直に心が動かされて、涙が出た。そして、観終わったあと、少しだけ心が軽くなっていることに気づいた。

当たり前だと思っていたものが、当たり前じゃないと気づいた

映画館を出たあと、頭の中で色々なことが繋がった。

今日、平日の昼間に映画を観に行けている。ブログを書くために、好きな時間にカフェにも行けた。この後は散髪に行ってさっぱりできるし、夜には子どもたちと会える。下の子とは最近、あるゲームで盛り上がっている。

こういう、なんでもない日常が、実は大切な自分の人生を作っている。それ以上、何を望んでいたんだろう、と思えた。

子どもが試合に出られない?自分が輪に入れていない?目立たない、存在感がない?

——別にいいやん。その分、自分の好きなように生きられる。毎日子どもと元気に話せるだけで十分だし、仕事はしんどくても、自分にしかできないことを片付けられたときには、ちゃんと達成感や必要とされている実感がある。

映画を観る前と後で、こんなに物事の見え方が変わるのかと、自分でも驚いた。

身近なことで、気分は変えられる

配信サービスで自宅でも映画は観られる時代だけど、お金を払って映画館に足を運び、スマホの電源を切って、2時間その世界に没頭する時間には、それだけの価値があると感じた。

似たようなことは、運動をしているときにも感じる。好きな音楽を聴きながら体を動かしている時間は、体はしんどくても、終わったあとに充実感がある。

「今この瞬間だけに集中する時間」を持つことで、頭の中のぐるぐるが一旦止まって、視界がクリアになるのかもしれない。

書いても消化できなくても、それでいい

前回の記事を書いたとき、「これで気持ちが整理できた」と思いたかった。でも実際は、書いたあとも気持ちは残っていて、しんどさは続いた。

それでも、今回気づいたのは、一度で全部消化できなくてもいいということだ。書くこと、映画を観ること、体を動かすこと。そうやって色々な形で気持ちと付き合っていくうちに、少しずつ視界が変わっていく。

輪に入れなくても、目立たなくても、自分には自分の日常があって、それを自分なりの方法で大切にできる。今はそれで十分だと思えている。

「輪の中心に入れない自分」に気づいた日

先日、子どもの習い事の応援に行った帰り道、なんとも言えない気持ちになった。

出場機会が減ってきた我が子を見ながら、応援の輪の中で、自分の居場所がないような感覚があったからだ。中心的な保護者たちの集まりに、うまく入っていけない。かといって、自分がその中心に入りたいタイプなのかというと、それも違う気がする。

考えてみれば、子どもが活躍しているときは、その活躍を通して自分もどこかで「輪の中にいる」ような感覚を持てていたのかも。それが今、出番が減ったことで消えてしまった。悔しいのか、寂しいのか、自分でもよくわからない感情だけが残った。

なぜ自分は「一人」が楽なのか

こういう感覚になったとき、自分の性格についても考えた。もともと自分は、大勢でわいわいするより一人でいる方が楽だと感じるタイプだ。なぜだろうと考えてみた。

自分は、人一倍「周りが気になる」性格なのだと思う。困っている人がいたら気になるし、集団の中でスポットが当たっていない人がいたら、つい気にかけてしまう。たいしたことができるわけじゃないけど…(笑)

仕事でも、目立たない人やフルで働ける人にこそ目を配ることが大事だと思って動いてきた。今世間の風潮的に男性も育休をとろう、残業は抑制だといったことがあるが、実際の感覚は、育休が推進される一方その補充がるわけでもないので、残された普通の?一部職員にしわ寄せがいっているのが現状だ。反発はあるかもしれないけど、だから自分は育休や子育て中の職員に配慮する一方で、それ以上に文句も言わずがんばってくれているフルで働ける職員に気を配りたいと思う。

そうやって常に周りにアンテナを張っていると、集団の中にいること自体が、地味にエネルギーを使う行為になる。他の人が気楽に輪に加わっている横で、自分は無意識に「誰か困っていないか、損をしていないか、不満がたまってないか」を探してしまう。だから、一人でいる方が気を張らずに済んで、楽なのだろう。

それでも、輪の中に入りたい自分もいる

矛盾しているようだが、心のどこかで「集団の中に入りたい」という気持ちも確かにある。一人が楽だと感じながらも、完全に一人でいたいわけではない。たまには何も気にせず集団の中にりたいときもある。この二つの気持ちは、両方とも自分の中にある本音なのだと思う。

そう考えると、「輪に入れない自分はダメだ」と責める必要はないのかもしれない。多くの人がなんとなく気楽に群れているとき、自分は違う関わり方をしているだけなのだ。人を気にかけすぎる分、群れの中で気楽に過ごすことが、性質的に少し難しいだけなのかもしれない。

感情に名前をつけなくてもいい

「悔しいのか寂しいのか、よくわからない」という気持ちについても、今は無理に一つの言葉に絞らなくていいのだと思うようになった。

子どもの活躍を見る誇らしさが減った悔しさも、輪の中に居場所がない寂しさも、たぶん同時に存在している。それをどちらか一つに分類しようとするより、「今、いろんな気持ちが重なっていて、しんどい」と、そのまま受け止めるだけで十分なのかもしれない。


自分がなぜこう感じるのかが少し言葉になっただけで、心が軽くなった気がする。だれかの役に立つような内容ではないけど、自分で整理するために今後もすこしずつ書いていきたい。