先日、子どもの習い事の応援に行った帰り道、なんとも言えない気持ちになった。
出場機会が減ってきた我が子を見ながら、応援の輪の中で、自分の居場所がないような感覚があったからだ。中心的な保護者たちの集まりに、うまく入っていけない。かといって、自分がその中心に入りたいタイプなのかというと、それも違う気がする。
考えてみれば、子どもが活躍しているときは、その活躍を通して自分もどこかで「輪の中にいる」ような感覚を持てていたのかも。それが今、出番が減ったことで消えてしまった。悔しいのか、寂しいのか、自分でもよくわからない感情だけが残った。
なぜ自分は「一人」が楽なのか
こういう感覚になったとき、自分の性格についても考えた。もともと自分は、大勢でわいわいするより一人でいる方が楽だと感じるタイプだ。なぜだろうと考えてみた。
自分は、人一倍「周りが気になる」性格なのだと思う。困っている人がいたら気になるし、集団の中でスポットが当たっていない人がいたら、つい気にかけてしまう。たいしたことができるわけじゃないけど…(笑)
仕事でも、目立たない人やフルで働ける人にこそ目を配ることが大事だと思って動いてきた。今世間の風潮的に男性も育休をとろう、残業は抑制だといったことがあるが、実際の感覚は、育休が推進される一方その補充がるわけでもないので、残された普通の?一部職員にしわ寄せがいっているのが現状だ。反発はあるかもしれないけど、だから自分は育休や子育て中の職員に配慮する一方で、それ以上に文句も言わずがんばってくれているフルで働ける職員に気を配りたいと思う。
そうやって常に周りにアンテナを張っていると、集団の中にいること自体が、地味にエネルギーを使う行為になる。他の人が気楽に輪に加わっている横で、自分は無意識に「誰か困っていないか、損をしていないか、不満がたまってないか」を探してしまう。だから、一人でいる方が気を張らずに済んで、楽なのだろう。
それでも、輪の中に入りたい自分もいる
矛盾しているようだが、心のどこかで「集団の中に入りたい」という気持ちも確かにある。一人が楽だと感じながらも、完全に一人でいたいわけではない。たまには何も気にせず集団の中にりたいときもある。この二つの気持ちは、両方とも自分の中にある本音なのだと思う。
そう考えると、「輪に入れない自分はダメだ」と責める必要はないのかもしれない。多くの人がなんとなく気楽に群れているとき、自分は違う関わり方をしているだけなのだ。人を気にかけすぎる分、群れの中で気楽に過ごすことが、性質的に少し難しいだけなのかもしれない。
感情に名前をつけなくてもいい
「悔しいのか寂しいのか、よくわからない」という気持ちについても、今は無理に一つの言葉に絞らなくていいのだと思うようになった。
子どもの活躍を見る誇らしさが減った悔しさも、輪の中に居場所がない寂しさも、たぶん同時に存在している。それをどちらか一つに分類しようとするより、「今、いろんな気持ちが重なっていて、しんどい」と、そのまま受け止めるだけで十分なのかもしれない。
自分がなぜこう感じるのかが少し言葉になっただけで、心が軽くなった気がする。だれかの役に立つような内容ではないけど、自分で整理するために今後もすこしずつ書いていきたい。
