手間をかけると、見えてくるもの

久しぶりにコーヒー豆を買った。家にある手動の豆挽きで、ぐるぐる回して挽く。正直、お湯を注ぐだけのインスタントやドリップの方が圧倒的に楽だ。それでも昨日、豆から挽いて淹れてみて、あらためて気づいたことがある。手間をかけた分だけ、味も明らかに違う。おいしい。

もちろん、手間をかけているという事実そのものが「特別感」というフィルターになっている可能性はある。ただ、それを差し引いても、やっぱりおいしいと感じた。手間をかけることで得られる成果は、思っている以上に大きいのかもしれない。これはたぶん、コーヒーだけの話じゃない。

似たようなことを、休暇のときにも感じる。休みを取ると、なぜか不安になることがある。自分が休んでいる間に、仕事が積み上がっていないか。状況がどうなっているか、見えないから落ち着かない。性格の問題なのかもしれない。休暇中のことは気にしない、というタイプの人なら、こんな不安は生まれないのだろう。

見えないから不安になるなら、見えるようにすればいい。というわけで、休みの間もオンとオフを完全に切り離さない、というやり方に今のところ落ち着いている。これも、ある意味では「手間」だ。本当に休むなら何も見ない方が楽なはずなのに、少しだけ手間をかけて状況を見えるようにすることで、結果的に安心して休めている気がする。

コーヒーも、休暇の過ごし方も、手間を惜しまないことで、何かしらの成果や安心が返ってくる。ただ、それが本当にいつも割に合っているのかは、まだよくわからない。手間をかけた分だけ必ず何かが返ってくるとは限らないし、手間をかけすぎて疲れてしまうこともある。それでも、今回のコーヒーと休暇の話は、手間をかけたことがちゃんと自分に返ってきた、という小さな実感だった。